
夜、壁の向こうで一度だけ
深夜、眠りの浅い時刻に、壁の向こうでこつ、と音がした。わたしは布団のなかで息をひそめ、次を待つ。
けれど二度目は来ない。風だろうか、それとも冷えた配管が縮む音か、あるいは誰かが指の背でそっとノックしたのか。
確かめようもないまま朝が来て、わたしはその音を忘れる。宇宙にも、これとよく似た「一度きり」の物音がある。あまりに短く、あまりに遠く、正体の分からないまま消えていく閃光が。
千分の一秒の閃光
それは高速電波バースト、英語の頭文字をとってFRBと呼ばれる。夜空のどこか一点が、千分の一秒ほど電波でぴかりと光り、あとには沈黙だけが残る。
最初の一つは二〇〇七年に見つかった。過去の観測記録を掘り返していた研究者ダンカン・ローリマーとその学生が、たった一度きりの奇妙な電波の跳ね上がりに気づいたのだ。のちに「ローリマー・バースト」と呼ばれるその閃光が、どこから来たのか、なぜ光ったのか、当時は何も分からなかった。
その一瞬に、遠い天体が長い時間をかけて放つほどのエネルギーが詰まっている。それが千分の一秒で撃ち出され、地球のアンテナをかすめて過ぎていく。壁の向こうの、一度きりの音のように。
これほど短い閃光から、なぜ遠さが分かるのか。閃光が宇宙空間の希薄なガスを通り抜けるとき、電波はわずかに引き延ばされ、高い周波数がいくらか先に、低い周波数がいくらか遅れて届く。この時間のずれの大きさが、通ってきた道のりの長さを物語る。多くのFRBのずれは、天の川銀河の内側だけでは説明がつかないほど大きい。つまり、はるか銀河の外から届いた音だと考えられている。
確かなことと、まだ分からないこと
FRBが実在し、ごく短い電波の閃光であることは、世界中の電波望遠鏡が確かめている。一方で「なぜ光るのか」は、まだすべてが解けたわけではない。この記事では、裏づけの取れた事実と、いまも推測にとどまる部分を、できるだけ分けて記す。
同じ場所から、また
多くのFRBは、一度光ってそれきりだった。ところが二〇一二年、同じ方向から何度も繰り返す一つが見つかる。FRB 121102と名づけられたそれは、最初に確認された「反復するFRB」だった。壁の向こうの音が、一度で終わらず、また、また、と続いたようなものだ。
繰り返すという性質には、思わぬ利点があった。一度きりでは追いかけようがないが、また光るのなら、望遠鏡をその一点に向けて待ち伏せできる。こうして反復するFRBのいくつかは、はるか遠くの小さな銀河のなかへと居場所を突き止められた。音の出どころの部屋が、少しずつ絞り込まれていったのだ。
さらに奇妙なことがある。反復するFRBのなかには、活動と静寂を規則正しく繰り返すものがあった。FRB 180916はおよそ十六日の周期を示し、数日ほど活発に光っては、残りの日々を黙り込む。まるで誰かが決まった曜日にだけ、ノックしに来るように。
単発のもの、反復するもの、周期を持つもの。物音は一種類ではなかった。空のあちこちで、性格の違う「音」が鳴っていたのだ。
探偵は、磁場の星を指した
長いあいだ、FRBは遠い宇宙の出来事で、手が届かなかった。転機は二〇二〇年四月に訪れる。
このとき、わたしたちの天の川銀河のなか、およそ三万光年の距離にある一つの天体が、FRBに匹敵する強い電波バーストを放った。SGR 1935+2154と呼ばれる、マグネターだ。マグネターとは、桁外れに強い磁場をまとった中性子星――太陽よりずっと重い星が燃え尽きて潰れた、都市ほどの大きさの芯である。
しかも同じ瞬間、この星からはエックス線の閃光も観測されていた。複数の望遠鏡がほぼ同時刻に、電波とエックス線の両方を捉えたのだ。偶然の一致とは考えにくい。強い磁場をまとった中性子星の表面で何かが弾け、電波とエックス線を同時に撃ち出した――そんな筋書きが、はじめて手ざわりのある証拠とともに語れるようになった。
銀河系の内側で起きたおかげで、この一発は詳しく調べられた。そして少なくとも一部のFRBは、マグネターが源だと裏づけられた。長らく正体不明だった閃光の、その一つの出どころに、探偵はようやく指をかけたのだ。壁の向こうの音の正体が、少なくとも一軒ぶんは判明したようなものだった。
それでも、まだ全部は分からない
けれど、事件が丸ごと解けたわけではない。マグネターで説明がつくのは、あくまで一部だ。すべてのFRBが同じ仕組みで光っているのかは、まだ分かっていない。
FRB 180916のような、あの規則正しい周期がなぜ生まれるのかも、確かな答えは出ていない。星が連れ合いのまわりを回る影響なのか、星そのものがゆっくり首を振っているのか――どれももっともらしく思えるが、まだ推測の域を出ない。
そして、しばしば囁かれる問いがある。あれは誰かの通信ではないのか、と。断っておきたい。FRBが人工の信号――たとえば地球外文明の通信だとする説は、これまでの証拠に支持されていない。観測されている性質は、自然の天体で無理なく説明できる範囲にある。壁を叩いているのは風でも配管でもありうるし、少なくとも「訪問者」だと決めてかかる根拠は、いまのところ何も見つかっていない。
それでも、想像するのは自由だ。空の同じ一点が、千分の一秒だけ光り、また黙る。その律義な繰り返しを前にすると、つい耳をそばだてたくなる。次の夜も、わたしは壁の向こうに聞き入るだろう。二度目が、いつ来るのかを待ちながら。
解けない残余
反復FRBの少なくとも一例は、二〇二〇年に銀河系内のマグネター SGR 1935+2154 へたどり着いた。それでも、周期の理由も、母天体の多様さも、すべてのFRBを貫く仕組みも、まだ闇のなかにある。壁の向こうの音の正体は、まだ全部は分かっていない。