
鏡の前の、ほんの短い違和感
朝、洗面台の鏡をのぞく。そこに映るのは、たしかに自分の顔だ。けれど左右は入れ替わっていて、こちらが右手を上げれば、向こうは左手を上げる。見慣れているはずの光景なのに、寝起きのぼんやりした頭で眺めていると、鏡の中のそれが本当に自分なのか、ほんの一瞬、心もとなくなることがある。
あるいは、雑踏のなか。駅の人混みで、自分と同じ背格好、同じ服の後ろ姿を見かけて、思わず二度見する。追いかけて確かめる度胸はなく、相手はそのまま人波に紛れて消えていく。江戸川乱歩は「双生児」で、うり二つのもう一人という主題を、静かな戦慄として描いた。もう一人の自分がどこかにいる——それは、ずいぶん古くからある怪談の骨格だ。
遥か彼方に、もう一人のあなた
この連載で、わたしはずっと、宇宙の未解決事件を乱歩の探偵譚になぞらえて書いてきた。締めくくりに置くのは、いちばん静かで、いちばん薄気味の悪い一件だ。手がかりは、いま鏡を見たあなた自身のなかにある。
もし宇宙が途方もなく広ければ——あるいは、果てなく無限に続いているのなら——遥か彼方のどこかに、あなたと寸分違わぬ存在が「いる」かもしれない。同じ顔、同じ癖、同じ記憶を持ち、いまこの一文を、あなたとまったく同じ姿勢で読んでいる誰か。……はじめに断っておくが、これは確かめられた事実ではない。ある条件が満たされたときにだけ立ち上がる、思考実験の影のようなものだ。だが、その条件は、思うほど荒唐無稽ではない。
見える宇宙には、果てがある
まず、確かなほうから話そう。わたしたちに見えている宇宙には、はっきりと果てがある。光の速さは有限だから、宇宙が生まれてからいままでに届きえた光には、届く範囲の限界がある。その内側を「観測可能な宇宙」と呼ぶ。
その半径は、約四百六十五億光年と見積もられている。ここで多くの人が引っかかる。宇宙の年齢は百三十八億年ほどのはずなのに、なぜ半径が四百六十五億光年もあるのか、と。答えは、宇宙そのものが膨らみ続けているからだ。光が旅しているあいだにも、その出発点とわたしたちのあいだの空間が引き伸ばされていく。だから、光が渡ってきた見かけの距離よりも、いま実際に隔たっている距離(共動距離)のほうが、ずっと大きくなる。
そして、この半径の外側からは、原理的に、まだ一筋の光も届いていない。そこを宇宙の「地平線」と呼ぶ。水平線の向こうに海が続いていても目には映らないように、地平線の外に何が広がっていようと、わたしたちには見えない。見えないのは望遠鏡の性能のせいではなく、光の速さと宇宙の年齢が引く、越えられない一線のせいだ。
手帳・地平線と共動距離
「観測可能な宇宙」は、宇宙誕生から現在までに光が届きえた範囲を指す。その半径・約四百六十五億光年は、いま現在の空間の隔たりで測った「共動距離」で、宇宙の膨張のぶんだけ、光の旅した見かけの距離より大きくなる。その外縁が宇宙の地平線であり、外側は原理的に観測できない。
もし宇宙が無限なら、配置は必ず繰り返す
探偵役の科学は、ここから一歩、思考を進める。宇宙初期には、インフレーションと呼ばれる急激な膨張があったと考えられている。ごく短い一瞬に、空間が桁違いに引き伸ばされたとする理論的な枠組みで、宇宙のどこを見てもほぼ同じに見えるという「地平線問題」などをうまく説明する。もしこの膨張が正しければ、宇宙は、わたしたちに見えている範囲よりも途方もなく大きい——ことになる。
そこで、こう仮定してみる。もし宇宙が無限に広く、物質がおおむね一様にばらまかれているのなら、どうなるか。決め手は、有限の体積が取りうる原子の配置の数が、有限だという点にある。
- 観測可能な宇宙ほどの体積が取りうる原子の並べ方の総数は、想像を絶するほど大きいが、それでも有限だ。
- 無限に広い空間には、そうした体積が無限に詰まっている。
- 有限の種類のものを無限に並べれば、同じ配置は、統計的に、必ずどこかで繰り返される。
その帰結として、あなたのいるこの領域とまったく同じ配置の領域が、遥か遠くに存在することになる。原子の一つひとつまで同じなら、そこにいるのは、あなた自身にほかならない。物理学者マックス・テグマークは、これを「レベルI多宇宙」と呼んだ。もっとも近い、あなたと同一の領域までの距離は、想像を絶するほど遠いと見積もられている。
ただし、これはあくまで「宇宙が無限なら」という条件つきの論理であって、確認された事実ではない。
手帳・レベルI多宇宙
テグマークの「レベルI多宇宙」は、宇宙が無限に広く物質が一様なら、有限の配置がいつか繰り返し、自分と同一の領域が必ず存在する、という統計的な帰結だ。別の物理法則を持つ宇宙といった話ではなく、同じ宇宙のずっと遠くの話である点に注意したい。あくまで「無限なら」という前提の上に立つ、条件つきの見取り図である。
会えないことが、否定できないことになる
では、この事件は解けたのだろうか。半分は解けている。見える宇宙に果てがあること、その半径が約四百六十五億光年であることは、しっかりと分かっている。だが、肝心のもう一人が本当にいるのかは、いちばん厄介なところで宙づりのままだ。
なぜなら、宇宙が本当に無限なのか、完全に平坦なのかは、いまも観測的に決着していないからだ。これまでの測定では、宇宙の曲率は平坦と矛盾しない。けれど「平坦と矛盾しない」ことと「無限だと証明された」ことは、まるで違う。無限は、有限の観測からは証明しきれない。
そして、仮にもう一人のあなたが本当にいたとしても、その居場所は必ず地平線の向こう側になる。原理的に光が届かない以上、こちらから確かめる手立ては、ひとつもない。会いにいくことも、いないと突きとめることも、永遠にできない。
会えないことが保証されているからこそ、いることを否定できない。
この連載で追ってきた事件は、いつも最後に、こういう手ざわりの残余を残した。分かったことの縁に、どうしても分からないひと欠片が貼りついている。宇宙は、その欠片を隠しているのではない。鏡の中のもう一人のように、堂々とそこにいて、ただ、決して振り向いてくれないだけだ。……今夜、鏡をのぞいたら、ほんの少し想像してみてほしい。遥かな地平線の外側で、いまこの瞬間、同じようにこの文章を読み終えようとしている、もう一人のあなたを。会えないその存在を、わたしたちは、いないとは言えないのだから。
解けない残余
宇宙が本当に無限なら、あなたと寸分違わぬ「もう一人」は、統計的に必ずどこかに存在することになる。だが、宇宙が無限か、完全に平坦かは、いまだ観測的に決着していない。しかも、仮にいたとしても、その居場所は地平線の外——原理的に光の届かない場所であり、会うことも、いないと確かめることも永遠にできない。会えないことが保証されているからこそ、存在も不在も、誰にも証明できない。この連載は、その解けない一件を最後に、静かに幕を下ろす。