
一見の客
宿の帳場に立っていると、名も告げずに戸をくぐる客がいる。土間を横切り、湯にも入らず、茶の一杯にも手をつけず、こちらが顔を上げたときにはもう草履の音が遠い。改札を通り過ぎる背中、暖簾を割って消える肩——名簿には一行、通り過ぎた時刻だけが残る。
わたしが宿帳をめくり直すのは、そういう客が去ったあとと決まっている。あの晩の一人は、とりわけ足が速かった。去り際にひと蹴り、こちらの見ていないところで速度を上げ、二度と戻らぬ道へ折れていった。
宿帳の欄には、こう記されている。1I/2017 U1、通称オウムアムア。二〇一七年十月、ハワイのパンスターズ一号望遠鏡が、その背中を偶然とらえた。ハワイの言葉でつけられたその名は、遠方からまっさきに届いた使者、あるいは偵察者、といった意味あいを持つという。名づけの時点で、もう相手は去りかけていた。見えていた窓はごくわずかで、ほどなく暗くなり、視界から失われた。慌ただしい記帳だった。
尾のない客
この客が奇妙だったのは、まず来た道である。太陽の重力に捕らわれた常連なら、楕円を描いてまた戻ってくる。ところがこの一人の軌道は、離心率が一を超える双曲線だった。閉じない。太陽系の外から来て、外へ抜けていく——つまり生まれ故郷は、別の恒星のまわり。人類がはじめて宿帳に書き留めた、恒星間天体である。
姿もまた妙だった。光の変わりようから、極端に細長い形が読み取れた。葉巻のようだとも、薄い円盤のようだとも議論があり、どちらとも決着していない。ただ、ふつうの客とはあまりに違う輪郭だった。
そして事件の核心である。太陽に近づき、また離れていく段になって、この天体の速度がわずかに、しかし確かに、重力だけでは説明のつかない非重力的な加速を見せた。彗星なら、日射で氷が噴き出す反動でこうなる。だが彗星につきものの、あの尾も、あの淡い雲——コマも、この客はほとんど見せなかった。
加速そのものは、ごくわずかだった。派手に飛び去ったわけではない。だが軌道を丹念に追った者たちには、太陽の重力と惑星たちの引きだけでは、この客の去り足を説明しきれなかった。ほんのひと押し、確かに何かが背を押していた。
噴くものが見えないのに、押されて速まった。尾のない者が、なぜ速足になったのか。ここから先は、わたしの手には負えない。探偵役を呼ぶよりない。
探偵役たちの推理
科学という探偵は、一人ではない。それぞれが別の筋書きを携えて現場に立った。いずれも一理あり、いずれも決め手を欠く。
- ありふれた脱ガス説——結局はふつうの彗星で、目立たぬ氷がひそかに噴き、反動で加速した。ただし、それなら見えるはずのコマが、どうにも足りない。
- 水素氷(H₂)説——本体が凍った水素でできていて、蒸発しても人の目に映る塵をほとんど残さぬまま押し出す。セリグマンとラフリンが二〇二〇年に提起した。
- 窒素氷片説——別の惑星系にある冥王星のような天体、その凍った窒素の地表から剥がれた一片だとする筋。ジャクソンとデッシュが二〇二一年に唱えた。
- 超低密度の塵集合体説——すかすかに軽い塵の塊なら、弱い光の圧力でも背を押される。
どれも、尾のない加速という一点を、それぞれのやり方で埋めにいく。だが決定的な物証は、ついに一つも挙がらなかった。
事件の勘どころ
謎は「加速したこと」ではなく「加速したのに、その原因が見えなかったこと」にある。彗星なら噴き出す氷が尾になって残る。それが乏しいまま速まった——探偵たちが割れたのは、まさにこの空白をどう読むかだった。
もう一人の探偵、その少数意見
ここで、筋の変わった一人を紹介しておかねばならない。天文学者アヴィ・ローブらは、この客が自然の産物ではなく、薄い帆で光を受けて進む人工物(光帆)かもしれない、という可能性を持ち出した。細長い形も、尾なき加速も、それで一応の説明はつく——大論争になった。
ただし、わたしはここを取り違えぬよう帳面に太く線を引いておく。これはあくまで少数説である。観測された事実は、水素氷や窒素氷片といった自然起源の仮説と矛盾なく収まっており、人工物説はそれらを退けるだけの証拠を持たない。主流ではない、と切り分けておく。事実は事実、推測は推測。宿帳に空想を書き足すのは、この稼業の禁じ手だ。
帳場に残ったもの
解けた謎も、たしかにある。恒星間天体は実在した。他の星のまわりから来た旅人を、人類はこの一人(1I)で初めて現行犯に近い形でとらえた。彗星の一種なら、脱ガスによる加速も一応は説明の筋道が立つ。ここまでは、わたしにも書ける。
だが、肝心の一行が埋まらない。目立つ脱ガスもないのに、何がこの背中を押したのか。細長い正体は、氷か、塵か、それとも——。容疑者は複数、決め手なし。しかも被疑者は、もう取り調べようがない。双曲線の道を折れて、星々の間へとうに逃走済みだからだ。
解けない残余
尾もコマも乏しいのに、何がオウムアムアを非重力的に加速させたのか。その正体が氷なのか塵なのか、いまなお決着していない。容疑者は複数、決め手はなく、天体はすでに星々の間へ去って再観測もかなわない——未解決のまま、事件簿はこの一枚を閉じる。
帳場の灯を細くして、わたしは次の足音を待つ。一人目がこうなら、二人目もまた、名を告げずに戸をくぐるだろう。宿帳に空欄を一行、あらかじめ引いておく。あの夜の客は、決して最後の一見ではないのだから。