
吹き溜まりの椅子
古い駅の待合室には、たいてい誰かの忘れものがある。片方だけの手袋、日に灼けた時刻表、栞を挟んだまま閉じられた文庫本……。人はひっきりなしに通り過ぎるのに、物だけがそこに残り、いつまでも留まっている。わたしは昔から、そういう場所に惹かれてきた。
路地の突き当たりも同じだ。風が巻いて、落ち葉や紙屑をひとところへ寄せ、小さな山をこしらえる。誰が掃いても、翌朝にはまた同じ隅に同じだけ溜まっている。そこにだけ、見えない椅子でも据えてあるかのように。
宇宙にも、その見えない椅子はある。何もない空間なのに、物がふしぎと居座れる席が。しかも、太陽と地球のような二つの天体につき、きっちり五つだけ。
何もない場所の、五つの席
星と星のあいだは、たいてい空っぽだ。掴まる岩もなければ、寄りかかる壁もない。ふつうに考えれば、そこへ置いた小石は太陽に引かれて落ちるか、地球に攫われて流れるか、どちらかのはずだ。留まる理由がない。
ところが、この宇宙にはたった五点だけ、小さな天体が周囲と歩調を合わせ、相対的にその場へ留まっていられる場所がある。太陽と地球が連れ立って回るとき、その配置に応じて空間のあちこちへ現れる、力の凪いだ座席……。それがラグランジュ点と呼ばれる、L1からL5までの五つの点だ。
何もない場所にこそ、席がある。
探偵は、重力だった
謎を解く筋道は、拍子抜けするほど素直だ。太陽の重力は内へ引く。地球の重力もまた引く。そして二つの天体が共通の重心のまわりを回るぶんだけ、外へ振り出そうとする力(回転する視点から見た遠心力)が働く。この三つの引き合いと押し合いが、ちょうど帳尻の合う一点では、小天体は落ちも流れもせず、その席に腰かけていられる。
十八世紀の数学が、紙の上でこの五つの席を割り出した。目には何も見えない。ただ、力の勘定だけがそこに椅子を置いている。宇宙の吹き溜まりは、風ではなく、重力が掃いてこしらえたものだった。
五つの席には、格がある
五つと言っても、座り心地は同じではない。L1・L2・L3は、椅子というより鉛筆の先で立てた棒のようなもので、少しでも傾けば倒れてしまう。そこに長く居るには、絶えず小さな姿勢の直しが要る。いっぽうL4とL5は、二つの天体と正三角形の頂点をなす席で、多少ふらついても、また元の位置へ戻ろうとする。腰を据えるには、こちらのほうがずっと居心地がよい。
言い換えれば、安定な席は椀の底へ落とした玉のようなものだ。少しずれても、ころりと転がって戻ってくる。不安定な席は、伏せた椀の頂に載せた玉。置けはするが、指を離せば、いずれどちらかへ滑り落ちていく。だから同じ五つでも、掃除の要らない席と、人が付ききりで直してやらねばならぬ席とに分かれる。
| 点 | 安定性 | 主な用途/中身 |
|---|---|---|
| L1 | 不安定(要維持) | 太陽と地球のあいだ。太陽観測機の定位置 |
| L2 | 不安定(要維持) | 地球の夜側の外。宇宙望遠鏡の指定席 |
| L3 | 不安定(要維持) | 太陽をはさんだ地球の真向かい |
| L4 | 安定 | 公転の前方六十度。塵や小天体の溜まり場 |
| L5 | 安定 | 公転の後方六十度。同じく吹き溜まり |
いちばん古いものが座る席
不安定な席にも、使いようはある。太陽と地球のL2は、地球の夜の側へ約百五十万キロ離れた点で、太陽も地球も背にして深い闇を見つめられる。妙味は、太陽も地球も月も、空のほぼ同じ側へまとまって見えることにある。だから一枚の日除けでまとめて陽を遮り、望遠鏡を凍えるほど冷たく保てる。遠い宇宙の古い光を赤外線で拾うには、その冷たさが要るのだ。いまはジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡がそこにいる。かつてはWMAPやプランク、位置天文衛星ガイアも、このL2のあたりに置かれた。人が微修正を続けて座らせている、いわば予約席だ。
けれど、ほんとうに古いものが吹き溜まるのは、安定なL4とL5のほうだ。木星の描く軌道の、前方と後方の頂点には、トロヤ群と呼ばれる小惑星が数千個以上も見つかっている。誰も掃除に来ない席に、太陽系ができたころの塵や欠片が、何十億年も座りっぱなしでいる……。そのなかには、惑星が生まれた初期の生き残りが含まれているかもしれない。
惑星のL4・L5には、淡い塵が溜まるという話もある。地球の近くで語られるコーディレフスキー雲がそれだが、あまりに希薄で、ほんとうに在るのかどうか、いまも議論が続いている。
地球の、空いたままの席
ここで、ひとつ腑に落ちないことがある。木星は数千個ものトロヤ群を従えているのに、同じ安定な席を持つはずの地球には、既知のトロヤ小惑星がごく僅かしかない。いまのところ見つかっているのは、L4にいる2010 TK7や2020 XL5など、数えるほどだ。
なぜ地球の席は、こんなに空いているのか。太陽に近すぎて見つけにくいという観測の事情もあれば、地球の席そのものが物を長く座らせておけない力学の事情もある。そのどちらがどれだけ効いているのかは、まだよく分かっていない。
覚え書き
ラグランジュ点は「引力が消える場所」ではない。重力はしっかり働いていて、太陽・地球・回転による見かけの力が釣り合う結果として、小天体が相対的に留まれるだけだ。だからL1〜L3では、放っておけばやがて席を外れてしまう。
解けない残余
重力は五つの席をきちんと拵え、木星の席には古い小天体を数千個も座らせた。それなのに、地球のトロヤ群だけは、なぜかほとんど空席のままだ。見つけられずにいるのか、そもそも座れないのか——その答えは、次の晴れた夜が、また少しだけ運んでくるのかもしれない。